荻野千尋の親になれない僕はヴィレヴァンに行く。

 

 アナーキーアンダーグラウンドなもの

   某友人に誘われたので、鞠小路通りに店を構えるちょっと変わった飲み屋へ行った。どう変わっているのかというと、内装がすべて廃材を集めて作られている。トイレにはどこから拾ってきたのか見当もつかない仮面やらフィギュアやらが所狭しと並べられておりちょっとした廟のようで、二階には極彩色の提灯が連なり、人体模型が垣間見える。一見するとセンスの悪いラブホテルのようで、どう見ても妖しい。人に例えると、千と千尋の神隠しの湯婆婆のごとき妖しさである。

 

 そんな湯婆婆の店だから、客も一筋縄ではいかない。その日、その店でイベントが開かれていたこともあり全国津々浦々からちょっと変わったのんべえが集まっていた。中には北海道からこの日のために上洛した人もいて、まさに湯婆婆の元に癒しを求め八百万の神が集まるように、左京区に八百万のへべれけが終結した。ふと脇を見ると、ヘドロにまみれたオクサレ様がいて、ヒヨコみたいなアイツもいる。そして僕はそんな油屋に身を置いた千尋改め千の気分だ。へべれけの神々は浮世離れしたそこはかとない雰囲気を纏っていてほんとうにもう神様なんじゃないかと思ってしまいそうになる。直截な物言いを憚らずに平たく大方の予想通りに正直に言ってしまえば、つまり、彼らはダメ人間なのである。ダメ人間たちはほんとうに旨そうに酒を飲んで、ほんとうに楽しそうに歌を歌う。もし、僕がヘミングウェイならこの場所を移動祝祭日と呼ぶのではなかろうか。

 

 ところで、ダメ人間として生きていくことは至上の幸福だ。その享楽的な姿勢が僕のモットーで、そういったアナーキーだったりアンダーグラウンドなものに対して漠然とした憧れがある。ホッピーを飲み交わしながら、誰かが持ってきたアコギで即興の政府批判を弾き語ってみたいじゃん。映画論をでっちあげながら、阿蘇山大噴火みたいなおっさんに日本酒を奢ってもらいたいじゃん。ということである。

 

 そうやって生きていきたい一方で、でも、小市民としての僕が「君は結局のところ狂人ぶりたいだけなのさ。そっちの世界には行けないよ。」と言う。ごもっともその通りだ。湯婆婆じゃなくて千尋だし、一九九〇年のヒット曲で言うなら、たまの『さよなら人類』よりサザンの『真夏の果実』な人間だ。

 

バラナシの日本人

 去年の秋、インド旅行をした。どうしてもガンジス河が見たかった僕はバラナシを訪れた。バラナシというのはヒンズー教の聖地であり、ヒンズー教徒はここで死んで遺灰がガンジス河に流されることで自然へと還っていく。道は全て路地で、街は全て路地裏である。湯婆婆もビックリの、「〽今日人類がはじめて木星についた」より衝撃的な、まさにインド的カオスはバラナシにて具現されている。そして僕はこの街を訪れることをとてもたのしみにしていた。

 

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 バラナシに着くと、日本語が達者な男にからまれ、お土産物屋に連れ込まれた。日本人観光客にとってのゴールデンルートで、つまるとことろ僕はカモである。薄暗い店内に大量のシルク製品。男が見せるアルバムには笑顔の日本人観光客との記念撮影が何十枚もある。あまり何かを買う気はなくて正直鬱陶しかったのだが、無下に断るのもどうだろうと思って、店を出るタイミングを計っていた。すると、店にふらっと五〇代くらいの日本人女性が入ってくる。いかにもバックパッカーの身なりをした彼女は慣れた様子で店内に場所を見つけ座り込む。その男と親しげに話す様子を見ると、顔馴染みらしかった。ちょっと気になって

「よく来るんですか。」と僕が彼女に訊く。

「そうだね。まぁ最近は年に一回くらい来てるかな」

「この人ワタシの日本のお母さんネ」

「君、いくつ?」

「十九です。大学一年で。」

彼女は煙草をふかし、もうインドの酸いも甘いも知り尽くしたような顔でケツの青い僕を見る。在りし日の自分の姿を僕に重ねているのだろうか。冬のバラナシは埃っぽい。そんな彼女の姿を見て僕は、イタイな。と思ってしまった。そして、バラナシの街が自分に合わなかったのだろうか。僕はその日体調を崩し、バラナシを離れるまで体調は回復しなかった。

 

 バラナシの彼女はある意味で、自分が憧れるような生き方だった。でも、論理ではない部分で好きになれなかった。飲み屋のダメ人間たちも最後の部分では壁があるのだろう、とも思う。そこにある脱社会性や刹那主義みたいなものを受け付けないのかもしれない。結局、僕は善良な市民だし、僕は卑しい人間だから、赤坂の高級料亭で会食する自分も毎年夏に軽井沢へ行く自分も諦めきれないのだ。

 

 湯婆婆のいる世界、油屋がある世界は人間がいるべきところではないように、一度訪れたら元には戻れないように、アナーキーアンダーグラウンドな世界から「シャバ」に戻るのは至難の業だろう。僕は別世界に繋がるトンネルの前で右往左往しているのだ。迷いなくトンネルの向こうへ行ける千尋の親のようには、なれない。彼らが豚になったのを見ているから。

 

そして、ヴィレッジヴァンガードへ行く

 そんなトンネルに入れない僕はその足である所に向かう。ヴィレッジヴァンガードである。店内に入ると心をくすぐられる先鋭(ヴァンガード)村(ヴィレッジ)。アイテムが目白押しの、サブカル界のドン・キホーテことヴィレッジヴァンガード、通称ヴィレヴァンである。ヴィレヴァンのいい所はその「ちょうど良さ」にある。普通の雑貨屋はつまらないけれど、ディープすぎる店は世界観に疲れる。その間にヴィレヴァンはあって、僕はヴィレヴァン浅野いにおの短編集を読んで、ヤバTのシングルを手に取るのだ。行くだけで文化的レベルが上がった錯覚に陥ることが出来る便利な店である。

 

 ヴィレヴァンにいるのは無毒化―本質的意味合いを破棄して商品化―した湯婆婆やバラナシの彼女である。そこで僕はそれらを消費することが出来る。僕は湯婆婆を札束でなぶり、バラナシをショーケースにいれる。せっかくだから保存用と実用用と観賞用、三つ用意しよう。そうして、アナーキーアンダーグラウンドなものを消費しに僕は今日もヴィレッジヴァンガードへ行くのである。

 

 そんなのもきっと、悪くはないのだ。