『ゲンロン0 観光客の哲学』読書ノート:旅人でも観光客でもないモノ#01

 

 旅行に出るにあたって色々なことを考えなくてはいけないし、考える機会が増えた。ルートを決めたり装備を決めたりというような実践的なことも勿論だが、旅という行為そのものについても、考えることがある。人間にとって私にとって旅とはなんなのか。今から行く私の旅は一体何なのか。考えるのだけども、答えは出るものではない。そんなこともあって、旅に関する本を読み、その記録を書き留めたく思い、「読書ノート」の場所を作った。本来、人に見せなくてもいいのだけれど、目的がないとなかなかやる気にならない性分で、折角書き起こしたのなら誰かに見せたい。そういう思いでこれをブログに載せているので、この読書ノートは大仰な書評ではなく走り書きやメモを見るような気軽さで読んでほしい。

 

 『ゲンロン0 観光客の哲学』は思想家の東浩紀による哲学書だ。自分の中で、東浩紀というのはニコ生にたまに出る政治評論をするおじさんで、斎藤環などと同時期のオタク論を展開する人間という印象しかなかった。そんな折、『日本2.0』や『福島第一原発観光地化計画』など近未来の日本への提案から彼に興味を持ち、大評判になっていたこの本を旅行について考える何か参考になればと旅立つ直前のこのタイミングで手に取った。

 この本は哲学書だから、ここでいう「観光客」というのは実際の観光客のことではなく彼の持ち出した哲学的概念である。ここでいう「観光客」とは、特定の共同体に所属しつつも別の共同体へ他者として訪問する存在のことで、ウチでもソトでもない第三の存在様式のことを言い、本書を通して東浩紀はこの観光客という概念がナショナリズムコミュニタリアニズム)とグローバリズムの二元論化した社会において、その社会構造を超越できる可能性を秘めた存在だと論じている。この本において、実際の観光や観光客についての考察はあまり見ることはできないが、それでもいくつかこの本を通して旅行について考えることが出来た。なお、本書では「観光」や「旅」という言葉は哲学的意味合いと不可分なモノとなっているため、これ以下では普段私たちが「観光」や「旅」と呼ぶものを、哲学的意味を含まないフラットな言葉として「旅行」と呼ぶことにすると断りを入れたい。

 旅行について考えたこと。それは第一に、移動という行為についてである。そもそも人間は本質的に移動する動物―ホモ・モビリタス―であり、人間として生活する以上、そこに移動とは不可分である。ここでの移動とは物理的な移動だけでなく、メディアを用いた情報的な移動も含まれる。どういうことか。本書の第4章で用いられていたネットワーク理論を用いて説明すると、人間社会とは人を頂点とし各々のつながりを線とする線分のネットワークであり、著者はこのネットワークの特徴を2点挙げている。まず、基本的に人間は近くの人間と関係を結んでその共同体の三角形の集合体の内部におり、次にその一方で、それぞれの人間関係、言い換えると一つの頂点から伸びる線の数は圧倒的に不平等で、その線分は遠くの誰かとつながる場合もあるのだ。ここで東浩紀は前者を「人間関係のスモールワールド性」と呼び、後者を「人間関係のスケールフリー性」と呼ぶ。ここで、後者において人々がネットワークに参加する際、すなわち、図形に新たな頂点が一つ加わる時、その点は自身の有利に働くように線分が多く集まる点を優先的に選択するのである。SNSやウェブサイトを例にとると、有力なアカウントやサイトには人がより集まり、そのことがさらに人を集めるという反復強化が起きている。

 ここから考えると、「人間関係のスモールワールド性」において、多くの線分は物理的な移動によってそのつながりを維持する。端的に言うと私たちは学校や職場、家庭へ「行って」、「顔を合わせる」ことで人間関係を結んでいる。他方で、「人間関係のスケールフリー性」における人間関係は実際の移動に依らないことが多いだろう。特に情報通信が発達した今日なら尚更である。この面で人間社会における移動とは、頂点と頂点を結ぶ線分を維持する行為と定義することができ、人間の移動とは情報的なモノも含まれるのである。ただ、特に「人間関係のスモールワールド性」において物理的距離が人間関係に影響しないということではない点に留意しなくてはならないことを書き加えておく。やはり物理的に遠い人間とよりも近い人間との報がコミュニティは構築されやすい。メディア論で名高いマクルーハンはメディアとは人間の身体性を拡張するモノと定義したが、これをネットワーク理論に代入すると、メディアとは線分を維持するモノと言えるだろう。インターネットや車、眼鏡など身体性を拡張するモノは線分の維持に役立っているのである。これと同様に、自分の旅行はある意味メディアと言えるはずだ。

 第二に旅と観光について考えてみる。詳しくは本書に譲るが、先程の話を踏まえると東浩紀は観光客というのは「人間関係のスモールワールド性」と「人間関係のスケールフリー性」を自由に行き来する存在だという。そこで疑問に思うのは旅人の存在である。というのも、本書の冒頭部分において「どの共同体にも属さない『旅人』でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる『観光客』」と両者は明確に区別されているのだ。この定義を用いると、旅人とは「人間関係のスモールワールド性」から脱却した存在だと考えられる。一般に、バックパッカーは自らを旅人と称したがるように思う。自分は観光客ですとは言わない。一方で、彼らはまさに観光客でもある。では、私は旅人として旅をするべきなのか、それとも、観光客として観光するべきなのか。そもそも旅人という概念はもはや哲学の世界にしか残っていないのではないか。(続く)

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