『ゲンロン0 観光客の哲学』読書ノート:旅人でも観光客でもないモノ#02

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前回↑の続き

  では、私は旅人として旅をするべきなのか、それとも、観光客として観光するべきなのか。そもそも旅人という概念はもはや哲学の世界にしか残っていないのではないか。

 まず、旅行というものの偶発性について考えてみよう。旅行というものはマクロ的に捉えた場合、政治や経済と密接に関わる問題である。日本の経済はいわゆる爆買いの中国人に支えられているし、訪日外国人の数値目標を政府は設定する。一方で、ミクロの視点では、旅行客の行動は文学的—少なくとも政治的ではない―だ。目的を持たない人々がショッピングモールをぶらつくように「ふらふら」物見遊山するだけである。合理的な理由や必然性はなく、そこには偶発性がある。旅であっても観光であっても各旅行者がそこで何をして、誰と交流して、何を感じるのかは誰にも分らないのであり、旅行とは偶発性の連続と言えるはずだ。

  ところで、本書の第7章ではロシアの作家ドストエフスキーの分析がなされる。ドストエフスキーの文学はフロイトの言葉を借りると「父親殺し」の文学であり、それは最終的にテロ行為に到達するのだという。事実、それを裏付けるようにドストエフスキーは皇帝暗殺の容疑をかけられてシベリアに送られている。東浩紀ドストエフスキーの分析を通してテロリストについて論を展開するが、彼はテロリストと観光客に共通性を見出しているのだ。ここで想定されるテロリストとは、政治的使命感から要人を狙ったようなものではなくナイトクラブでの銃乱射や秋葉原の通り魔殺人のような政治的というより文学的な存在、「まじめ」に考えると動機が釈然としない存在であり、これはドストエフスキーの小説に登場する「地下室人」に近いイメージだ。彼らに見受けられる「ふまじめさ」は観光客に通ずるところがある。観光客は「人間関係のスモールワールド性」と「人間関係のスケールフリー性」の両者に生きているから、外部のコミュニティに「ふまじめ」であったとしても構わない。私たちが外国人の観光客に対して抱く、そんなものを観てどうするのだ、とか、彼らは本当の日本の姿を見ていない、といった歯がゆい思いはこのことの裏返しと言えるだろう。では旅人はどうか。彼らは「人間関係のスモールワールド性」から脱却しているために、第三者が見て本当に達成しているのかは置いておいて、その場所に真摯に向き合わざるを得ない。

 そうして考えてみると観光客として観光することは、「移動によって人間関係の維持をしつつ、ふまじめにふらふらする」ことである。彼らは旅行の偶発性によって遠くの誰かと人間関係の線分のつなぎあいやつなぎかえ(誤配)を行いながら、旅行によって自らの所属する三角形(コミュニティ)の線分を維持、強化する。さも爆買い中国人がショッピングモールをふらつきつつ、家電を大量に購入してそれを友人や親族に配るように。これに対して考えてみると、旅人として旅することは「移動によって人間関係を再構築し、まじめにふらふらする」ことであると言える。旅人は旅行の偶発性による誤配の中に人間関係の三角形を見出す。この時、旅人的アプローチをとることは難しいだろう。なぜなら、残念ながら私は最終的に出発前の人間関係に帰ってこなくてはならないのだ。帰国後に一度解体した人間関係を再構築する「旅」をするのは実際問題骨が折れる作業だ。一方で、観光客として観光するのにも問題がある。メタ的にはなるが、これほどまでに「まじめ」に旅行というものについて論じていることがその証左である。もはや観光客にはなりえないのだ。

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  そこで私は旅と観光について第三の道を考えたい。すなわち、アウフヘーベンして、「移動によって人間関係の維持をしつつ、まじめにふらふらする」可能性を提案したい。この提案は思考上の発案であって具体的な実践を現段階では伴わないが、私はこの発想が旅と観光のあいだを埋めることができるのではないかと考えている。だが、その前に残った1つの疑問について考察してみることにする。それは本書における旅人とは具体的にどんな存在であり、はたまた哲学的概念上にのみ存在するモノではないのかということである。

 東浩紀は自著『弱いつながり』にて、旅人についてバックパッカーでインドを放浪するような人やヒッピーのような人を想定しているようだが、ここでは前述の議論を踏まえた旅人を掘り下げてみたい。旅人とは「移動によって人間関係を維持しつつ、まじめにふらふらする」という捉え方をした。ここで私に思い浮かぶのは、ホロコースト期のユダヤ人である。そもそもの前提として、ユダヤ人は流浪の民であり、二千年以上をかけて中東からヨーロッパ、そして世界へと広がっていった経緯がある。ナチスドイツにより殺戮が行われたホロコースト期のヨーロッパ。ナチス支配下に入ったユダヤ人は離散することとなり、ある者は10日以上電車で運ばれた末アウシュビッツやトレブリンカといった収容所にて虐殺され、ある者は命からがら逃げだしてアメリカに亡命したり遠く上海まで逃亡したりした。受動的ではあるが、彼らは自分の人間関係を捨てて、政治や生命という「まじめ」な理由で世界を渡り歩くこととなった。彼らはまさに旅人であり、ユダヤ人の歴史は旅人の歴史でもあるのではないか。そして彼らは他者との関係の中で自らを適応させ続けてきた。旅人としてホロコースト期のユダヤ人を想定するならば、旅人は哲学的概念上にのみ存在するモノではないけれど、今日では非常に稀有な存在で半ば消滅したといってもいいだろう。

 話を戻そう。「移動によって人間関係の維持をしつつ、まじめにふらふらする」とはどういうことか。学者の大槻文彦は旅(ここでいう旅行)を「家ヲ出テ、遠キニ行キ、途中ニアルコト」と定義するが、ここから旅行という行為は大きく3つの要素で成り立っていることが分かる。一つ目の要素は移動で、二つ目の要素は生活、そして三つ目の要素はそれが継続していることだ。ここで観光客は「自らの生活をソトに移動している」と言えるし、対して、旅人は「ソトの生活に自らを移動している」と言えるだろう。そして、ここに三つ目の要素の継続が介在し、移動の継続が失われた時は移住や人間関係の再構築となり、生活の継続が失われた時は、世界が記号化する。これは若干分かりにくいかもしれないが、マイルを貯めるためにひたすらに飛行機に乗り続けるマイラーという人々を想像すると理解しやすい。マイラー達の主眼はマイルを貯めるために移動することにあり、目的に到着後も次のフライトに乗るために空港を出ないことも多々ある。彼らにとって目的地は目的地である以上の意味はなく、そこにソトの生活の継続はないし、自分の生活の継続もない。あるのは、飛行機の座席と機内食という第三者が強制する画一化した生活だ。この時、世界は空港的コスモポリタニズムの中で平板化してしまうのだ。

 以上の要素を旅行の第三の道「移動によって人間関係を維持しつつ、まじめにふらふらする」について取り入れてみると、「自らの生活をソトに移動させつつ、ソトの生活を自らに移動させる」と表現することが出来る。人間関係は維持したままでまじめにふらふらすることによって、人間関係の線分につなぎかえ(誤配)をもたらすのである。非常に乱暴な表現で言い換えると、第三の道では「爆買い中国人のように行動をして、ユダヤ人のように経験し続ける」のである。「自らの生活をソトに移動させつつ、ソトの生活を自らに移動させる」という第三の道は自己と旅行先についてのメタボリズムであり、究極的には自己と旅行先の同一化が起こるとも解釈ができるがそれは間違っている。実際には旅行者は同一化の前に継続して移動と生活をし続けているのであり、自分の生活は様々な色が混ざり合った雑多なモノとして存在し、それが旅行先に染み出るのだ。私は残念ながら、前述した通り現段階では第三の道のうまい実践の方法論を思いついてはいない。しかし、私は第三の道を選ぶことで旅と観光にまたがる「人間関係」と「まじめ・ふまじめ」の問題、「移動」と「生活」の問題を解消したい。ウチとソトの差を消化し、波及させるアプローチを提案したい。今日、旅人は消え去った。旅人が半ば消滅し、世界中を観光客が飛び回っている現在、観光客になりえない私は新たな旅行、第三の旅行を行う必要があるのだ。(終)

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