『明るい夜に出かけて』『コンビニ人間』読書ノート:コンビニ文学とアーレント

 

長距離を歩く時、コンビニは欠かせない。アスファルトの上を往くキャラバン隊である僕らにとってそこはオアシスだ。それは至る所に存在する。そこには食料があり飲み水がある。それはいつでも開いている。そして、休憩スペースで休めたりするとなお良くて、そしたらもう僕らは勝利したも同然だ。やっぱり24時間やっていて日本中で同じ店舗が展開しているのは偉大だ。口では資本主義や近代化に抗ってみたところでカラダは素直。コンビニの魅力の前には無力である。

コンビニの店舗はどこへ行っても似たようなモノである。同じような商品が同じような配置で並べられている。そんなこともあって初めて行くコンビニでも初めての気がしない。北海道*1でも沖縄でも弁当を買えば「お箸はつけてもよろしかったですか」と訊かれ、アイスとホットスナックを買えば「袋分けられますか」と訊かれる。言ってしまえば日本中に「コンビニパラレルワールド」が広がっているのだ。

 

でもその一方で、コンビニの店員だって制服を脱げば人間なんだから、それは似たようなモノではない。それぞれのコンビニ店員は店員である前に人間で、友達がいて、好きなモノがあるはずだ。

 

『明るい夜に出かけて』は『一瞬の風になれ』で有名な佐藤多佳子の作品で、山本周五郎賞受賞作でもある。主人公の富山は人間関係のいざこざから大学を休学し、実家を離れた20歳。これはそんな彼が趣味を通して周囲の人間とかかわりあうことで未来へ希望を見出す再生の物語だ。物語の肝となるのがこの趣味。彼は深夜ラジオ、特に「アルコ&ピースオールナイトニッポン(以下、アルピーANN)」を聴くことを唯一の愉しみとしている。この小説における深夜ラジオ(特にアルピーANN)への熱量は半端なく、後半は作者の深夜ラジオへの、アルピーANNへの愛の独白なんじゃないかと思ってしまうようなカロリーの高い文章が続く。読み終わった時、たぶん痩せた。

 

僕自身はそれこそオールナイトニッポンアルコ&ピースD.C.GARAGE*2のリスナーだしメールを送ったこともあるくらいには深夜ラジオが好きだし*3、これは深夜ラジオリスナーなら必ず読んだ方が良い一冊だけれど、別に深夜ラジオへの愛がなくたってこの小説は面白い。同じ物事に緊張し、落胆し、でも、興奮できる仲間がいて、それを見ていてくれる仲間がいることの素晴らしさ、深夜ラジオという世間の片隅にひっそりと存在する青春への賛歌だ。青春小説かく在るべしだ。

 

そしてこの物語はアルピーANNをツールとして進んでいくが、コンビニを場として展開していく。というのも富山はコンビニでバイトをし、ここで仲間と出逢うのだ。高校の同級生の永川、職場の先輩の鹿沢、ハガキ職人でJKの佐古田。彼らの青春譚を追っていくと、そこは僕にとってはただのコンビニだけれども、ある人にとっては特別な場所なのだと身に染みる。物語の最終盤、富山はコンビニを辞めて大学に復学する。これは仲間を得た彼の成長なのである。

 

一方で、『コンビニ人間』の主人公、古倉恵子はコンビニへ全く違ったアプローチをする。

 

村田沙耶香作『コンビニ人間』は第155回芥川賞受賞作で、タイトルに惹かれて、僕が久々に新書で買った小説でもある。主人公の古倉は大学生から18年間ずっと同じコンビニでアルバイトをし続ける36歳の女性。ひょんなことからある男性と同棲を始めることとなり、それをきっかけに周囲の環境や人間関係が変化していく。『コンビニ人間』はその顛末を描いた物語だ。

 

このように書くと恋愛小説のように思われるかもしれないが、断言しよう。それは全く当てはまらない。そもそも古倉には結婚願望や恋愛感情はおろか性欲すら無い。18年間も同じコンビニバイトを続ける人間なのだ、一筋縄でいくはずのない変わり者だ。彼女はふつうの人が追い求める生活に、人間の欲の部分に魅力を感じない。同棲を始めたのは、妹に「世間体を気にしろ」と言われ続けたからに過ぎないし、コンビニ店員として画一化された「常人」を装って生きていくのが唯一の志で、それが彼女なりの処世術だった。

 

ネタバレになってしまうが、整然としていて人間関係や個性の介在の余地がないコンビニの無菌室のような存在—コンビニパラレルワールド―を彼女は気に入っていた。しかし、同棲を機にコンビニの仕事仲間たちは彼女の私的領域に干渉をし、彼女の私生活に興味を抱き始めて(といっても18年目にして初めて飲み会へ誘ったぐらいである。)、彼女は遂に18年働いたコンビニを辞める。「世間の求める常人として生きるのはこんなに苦痛なのか」と。そして、就職活動をしていくのだが、最終的に彼女は再びコンビニで働くことを衝動的に選んでしまう。世間体の良い人間として生きる道を捨てて、コンビニにアイデンティティを求め、そこに生を実感するのだ。「人間である以上にコンビニ人間なんです」と。背筋がゾクッとする読後感だった。

 

『明るい夜に出かけて』の富山がコンビニで得たモノを『コンビニ人間』の古倉は気味悪がって自ら捨てた。一般には富山がふつうの人で古倉はへんな人だ。でも、古倉みたいな人って、そのうち珍しくなくなるんじゃなかろうか。

 

ハンナ・アーレントという哲学者がいる。第二次大戦から戦後にかけて活躍したドイツのユダヤ人で、哲学者ハイデガーの愛人としても有名だ。彼女の名著『人間の条件』について前回扱った『ゲンロン0 観光客の哲学』の中で触れられていたのでここでも紹介したいと思う。

 

アーレントは人間の生活は3つの能力から成り立っているとする。すなわち、「活動」「仕事」「労働」である。「活動」とはギリシアのポリスをモデルとする政治にまつわる身体行為、例えば、選挙への立候補や市民活動、ボランティアなどに相当する。「仕事」とは趣味であれ仕事であれ、所謂「ものつくり」が当てはまる。そして、「労働」とは身体の力だけが問われる行為、現代風にいうと時間と人数のみで換算される賃金労働の事である。例えば、まさにコンビニバイトのような。

 

そして、アーレントは消費社会を念頭に置いて、近代社会は労働社会だとして「労働」を批判する。アーレントによれば労働とは奴隷化に他ならないのである。そこでは労働力であれさえすればいいから、個人が個人である理由がいらない。ある種の匿名化である。裏返せば、個人として不要な人間には公の意識がうまれないのだ。アーレントの主張する「人間の条件」は「活動」のコミュニケーションによって人とつながることで「自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間社会にその姿を現す」ことにあるのだ。

 

ここで、二人の主人公、富山と古倉を考えてみる。富山は人間関係からの逃避としてコンビニバイトを選択し、最終的にコンビニバイトを辞めて大学へ復帰した。アーレント的に言うと、「労働」の匿名性に堕ち、仲間とのコミュニケーションで「労働」から「活動」へと復帰した。対して、古倉はアーレントと真っ向から対峙する。「労働の何がいけないのですか」と彼女はいうだろう。彼女はコンビニを通して、自分はコンビニ人間なのだとアイデンティティを表明している。

 

そう思うと、古倉はやっぱり異端であると同時にポストモダン的だなぁとも思うのである。近代以降、人間の本能による領域が拡大し我々はゾンビのように労働と消費を続けるが、それを批判したのがアーレントであり、そこに対して開き直れたのが古倉で、古倉こそが近代哲学者の苦悩から解放された存在ともいえるだろう。このご時世、「活動」の領域は狭くなっている。「活動」に生きるより「労働」に生きる方が楽かもしれない。コンビニ人間は近い将来、珍しくはないふつうの人になっているかもしれないと、ふと思う。

 

そんなことを考えるけれど、レジでJKバイトに「ありがとうございました」と微笑まれるとドキッとしてしまう今日この頃だ。カワイイ店員の微笑みが「コンビニ人間」的だと思うとなんだか切ない。

 

ちなみに、男子大学生店員の微笑みは、いらない。

 

 


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*1:北海道のコンビニでのローカルのやり取りとして、おにぎりを買うと「おにぎりあたためますか」と訊かれることがある。

*2:アルピーANN終了半年後の2016年9月からTBSラジオにて開始したラジオ番組。

*3:一度だけ投稿メールが読まれたことがある。いつも聞いているパーソナリティが自分のメールに笑っていることがこんなに嬉しいとは考えていなかった。