【タジキスタン】世界の屋根と自転車素人#01「名残を残す」
朝の7時である。機体は旅客を満載し、砂交じりで霞んだ空を進む。多くを漢字と漢民族に占められた機内に中央アジアの情緒はほとんど無いけれど、僕の右隣に座る中年の女性の目鼻立ちにははっきりと強弱があり、そして、極彩色のひときわ目立つ民族衣装を着ている。異文化に行くんだ、と思った。一方で、左隣に座る相棒、海老名クンは座席に深く腰掛けて舟を漕ぎ、僕と同じメリハリのない顔をゆらゆら上下に揺らす。徒労感が否めない。しかし、かくいう僕も疲労困憊だった。
名残を残す
いよいよパミールへ向かう。といっても、中国から直接パミールに向かう訳ではなくて、まずタジキスタンの首都、ドゥシャンベへ空路で飛び、そこからパミールの玄関となるホログという街まで乗り合いタクシーで行く必要がある。ということで、僕らはバックパックを背負い自転車を抱えながら、一路パミールを目指すべくウルムチのゲストハウスを出た。旅が再び動き出す。まだ夜明け前のことだった。
生活の始まっていないウルムチの朝に交通量は少なくタクシーも中々捕まらない。たまに通りかかるタクシーは大きな荷物を抱えた二人連れに、僕らの挙げた手を無視して過ぎ去っていくのみでこのまま空港に行けないのではないかと不安がよぎる。ようやく10分ほど経って一台のタクシーが捕まり、それに続いてもう一台タクシーが停車してくれた。そして、僕らはタクシーに分乗しなんとか空港へと出発した。
車と車の間を縫うように猛スピードで飛ばすのはタクシー運転手の矜持なのだろうか。まるでそうしなくてはいけないようにタクシーは爆走していく。そんなうちに気が付くとタクシーは高速道路に乗っていて、そこからは朝日に照射された都心部のスカイラインのシルエットが見えた。それは信じられないほどは美しくて、僕にこの街への、中国への名残惜しさを抱かせるのだった。
ただ、この街に「名残」を残したのは僕だけではなかった。相棒、海老名クンもその一人だ。僕の乗っていたタクシーが空港に到着し、下車すると続けざまに彼のタクシーも到着する。そして彼は自転車を降ろしてカートに載せ、一息つくところで、一言。
「あ。」「タクシーにカバン忘れた。」
もはやその時、タクシーは遥か彼方に走り去ってしまっていた。警察に連絡しようにも僕らは2時間後のフライトに乗らなくてはいけないし、この旅で中国に戻る予定はない。つまるところ彼はipadの入ったカバンー名残ーをウルムチで失くしたのである。ただ、彼の荷物の3分の1が消え去ったが、幸いにして貴重品は入っていなかった。僕が「パスポートとかじゃなくてよかったね」と声を掛けると、彼は「切り替えた」と言うのだが、その胸中はいかほどだったのだろうか。心なしか気落ちしているように見えた。と同時に、モノの在処を把握していないのはダメだなぁと僕は内心で思っていた。思えばコイツ、二日前にも自転車を北京に置き忘れている。なにやってんだ。
僕の残したもの
ただ、この街で「なにやってんだ」なのは海老名クンだけではなかった。にっちもさっちも動かない長蛇の列に並び、やっとこさチェックインを終え、そして、イミグレーションで僕は一言。
「あ。」「パスポートが無い。。。」
気づいた事実に全身から嫌な汗が止まらない。どこに忘れたのか。チェックインカウンターか。押していたカートの中か。それとも、カバンから落としたのか。いずれにせよ中国人民で溢れかえるターミナルで一冊のパスポートを探すのは至難の業。ターミナル中を探してみたものの、案の定、見つからないし見つかる気配すらない。1時間前の自分の言葉が身に沁みる。
「パスポートじゃなくてよかったね」
まさにその通り。「パスポートじゃなくてよかったね」。そう、「パスポート」だと「よくない」。滅茶苦茶「よくない」。ドゥシャンベ行きのフライトに乗れないばかりか、少なくとも再発行の為に西安まで行く必要がある。旅程は大崩れだ。海老名クンは「もしパスポートがなかったら、西安の日本領事館まで自転車で行こう」と笑ってくれたが、その胸中はいかほどだったのだろうか。
そうして、どうしようもなくなって僕は中国南方航空のスタッフにすがる視線を向けながら「あのー」。すると知的なメガネの彼女は英語を話した。「もしかして、これ探してた?」手には赤い日本国旅券。間違いなく僕のパスポートだった。
聞けば、自転車の超過料金の支払いが完了しておらず南方航空からパスポートを返却してもらっていないだけだった。考えてみれば当たり前で、冷静になれば忘れるはずの無いことをなぜ僕は失念していたのだろうか。ともかく、良かった。本当に良かった。これで旅を続けることが出来る。安堵のあまり、膝から崩れ落ちそうになる僕とそれを見て笑う中国南方航空の彼女と海老名クン。雰囲気的には聖蹟桜ヶ丘の磯野家が夕食を囲み、家族で「ワハハハハ!」と笑うアレに近く、僕らと彼女は安堵感と日曜夕方の食卓の様な幸福感に包まれる。ただ、それも束の間。搭乗時間まで時間はなく、僕らは空港を全力疾走するハメになった。
飛行機に無事に乗り込むことが出来た時、僕らはもう疲れ果てていたらしい。機内食を食べ終わると海老名クンに続いて僕もすぐに寝てしまった。