パパ・ハビエルのために。

どこか、遠い世界の話だと思っていた。いまもそう思っているかもしれない。

街から人が消えて、人と人は会わなくなった。人類という種族が太古の昔、マンモスを追いかけていた頃から、その発展を支えてきたものは「つながり」だというのに。私たちが生き延びる最適解は孤独に家に閉じこもることだという。我々は社会のシステムを構築し、社会のシステムに参与することで繁栄してきた動物なのに。この数か月間で私たちの社会、文明、そして私たちという種族は間違いなく衰退したのだろう。

 

パパ・ハビエルがコロナにかかって亡くなった。パパ・ハビエルはスペインのホストファザー、ハビエルの父親で、自分からすると祖父ほどの年齢にあたる。パパ・ハビエルとはクリスマスとニューイヤーの時に会った。一族が集合するパーティーの輪の真ん中で笑う彼は誰からも好かれる好々爺だった。パパ・ハビエルはそのパーティーでロクにスペイン語も喋れない小柄な東洋人を歓待してくれた。いきなり転がり込んだ異邦人を受け入れるその表情の柔和さは彼の優しさを表していて、私は直ぐに彼のことが好きになった。

 

パパ・ハビエルは器用だった。かつてはバレンシア市マジック連盟の会長を務めたほどのマジックの名手だったらしい。彼の息子たちが彼に教わったマジックを次々に披露してくれた。それを満足気に見ていたパパ・ハビエルはおもむろに立ち上がり、自分の部屋から紙箱を持ってきた。紙箱には日本の折り紙の教習本と彼が折った作品が入っていた。その作品はどれも上級者むけの複雑な作品で、どれも一枚の紙からできたものだとは考えられない出来だった。パパ・ハビエルは日本人である私に折り紙を見せたかったようだった。私は感銘を受けてパパ・ハビエルと一緒に折り鶴を折った。その様子を見ていた家族たちは私も私もと折り鶴を折りだしたが、初心者には難しかったのだろう、結局最後まで作ることができたのはパパ・ハビエルと私だけだった。私たちは二人で笑った。

 

それから数日後、パパ・ハビエルが私の滞在していた家にやってきた。彼は手土産として白い折り紙で折られた「薔薇」を持ってきてくれた。どうやら私のためにわざわざ作ってくれたらしかった。代わりに私はいつか使う時が来るかもしれないとバックパックの奥底にしまっていた日本の折り紙をパパ・ハビエルにプレゼントした。和柄の日本らしい折り紙。それを笑顔で受け取ると彼は自分の家へと帰っていた。私たちは「Chao!」と言い合った。それが最後だった。

 

パパ・ハビエルはコロナにかかって亡くなった。今日時点での世界全体のコロナによる死者は9万人程だという。世界人口のたった0.001%だ。その0.001%のうちにパパ・ハビエルが入ったことを私は俄かには信じられない。街の桜はいつも通り咲いて、散っていったのに。いつも通り花粉症に悩まされているだけの春なのに。敵は目に見えないし、喧騒が消えたこの世界は一見すると平穏だ。何と戦っているのか、戦いはどれだけの戦果を挙げているのかを知覚するのは難しい。でも、その中でもこの戦いの犠牲者が確かにいた。パパ・ハビエルはそれを教えてくれたが、それでもなお、それを信じたくない。

 

私は見えない敵との闘いを続けていく他ない。それがパパ・ハビエルへの弔いとなるはずだし、どこかの誰かが生き抜けなかったこの社会を再び繁栄させる者の役目だと思う。どこか、遠い世界の話だとしても、誰かにとっては近い話なのだ。私が誰かにとってのパパ・ハビエルを救うことはできる。私たちには自分や種族を衰退させてまでも遠いどこかの人命を救うことを選べる理性がある。この誇るべき種族と誇るべき社会を再び繁栄させるために、再び顔を会わせて笑い合うために、戦わなくてはならない。

 

パパ・ハビエルにもらった白い薔薇の折り紙がある。これは私が彼に手向ける弔花である。白い薔薇の花言葉は「深い尊敬」。優しさ、寛大さ、その愛。彼はまさに深い尊敬に値する人だった。

パパ・ハビエル。あなたが安らかな眠りにつかれることを祈り、私はこの厄災を生き抜きます。そちらでも折り紙、折ってくださいね。

【タジキスタン】世界の屋根と自転車素人#06「横浜センセイがいた」


(前回↑の続き)

 

 直らなかった自転車を引きずりながら宿に帰って(結局、修理代は払わなかった)、なんだかんだしているとあっという間に日が暮れた。この宿では夜の二時間だけwi-fiが使える。僕らはそれを求めて、ビール片手に屋外の縁側のようなところで寝ころんでいた(ちなみにこの縁側のようなところでも寝袋を敷いて宿泊することができる。こちらは室内より少し安い。)。ただ、wifiが使えるからと言っても動画を見られる程の回線状況でもなくて、地図を見たりネットから情報収集するぐらいなのでするべきことも多くない。次第にスマホを触る時間と会話をする時間が逆転していった。

 

海老名クンと今後の予定やら、高校時代の話やら、なんてことのない喋りをしていると

「こんばんは!」

話しかけられた。60代ぐらいの男性だった。

「こんばんは!日本人ですか?」

そう。と男は頷く。こんな辺境の宿にも日本人はいるもんなんだ。ツレがいる感じでもないところを見ると、どうやら一人旅らしい。初老の男性が一人旅でパミール。間違いない、この人は変人もしくは変態だ。(人のことを言えないが)

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【タジキスタン】世界の屋根と自転車素人#05「空気を読んだ自転車工」


(前回↑の続き) 

 

車は谷間を進む。雲一つない青空は砂塵で霞んで、谷底をながれる川は山肌とおなじ茶色をしている。ランクルはこの細い未舗装路を飛ばして大型トラックを追い抜かしたかと思えば、対向車とすれ違うために急減速をするので、落ち着く暇はない。川の対岸はアフガニスタンだ。といっても、川の向こう側で劇的に風景が変わるわけでもない。おなじ茶色の山肌がつづくだけで、そこがテロと情勢不安の国であるようには思えなかった。

 

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川の対岸はアフガニスタン

ホログについた頃には日は完全に暮れていた。ドライバーの言っていた所要時間の通りだった。車を降りて固まった身体を伸ばしていると、ドライバーは屋根に乗せていた自転車を降ろしていた。「ありがとう」僕らが彼に握手を求めると、彼は積み荷代として100ソモニを上乗せて要求してくる。ふざけるな。「てめー昨日、トータルで300ソモニだって言ってただろ。払わないよ。」「積み荷の100ソモニはみんなそうだ。当たり前だろ」疲れているからって、負けるわけにはいかない。言い争いだ。星空に大声が響く。僕らが激しく口論していると、見かねた宿のスタッフが間に入ってくれた。スタッフが言うには、言い分は分かるがトータルで400ソモニは悪い額じゃないし、積み荷代も珍しいことじゃない、払ってやってくれ。と。「そこまで言われると」。僕らは不本意ながらドライバーに積み荷代の100ソモニを渡した。時刻は夜9時。出発から12時間が経っていた。ホログは谷底にあって、宿は街外れにへばりつくように立地している。宿から見下ろすと町にはいくつかの電灯の光が確かに灯っていて、この辺境の地に人が暮らしていることを誇示しているように見えた。寝床につくと僕らは泥のように眠った。

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【チリ】パスポートを盗難された後にやるべき事

前編(https://ressoryankyoto.hatenablog.com/entry/2019/03/28/110021)では事件の経緯を説明しましたが、後編ではパスポート再発行までの手続きを説明したいと思います。

 

 

「警察への連絡」

僕らはしばらく手掛かりのないまま街を走り回っていましたが、事の一部始終を見ていたというおばさんが僕を呼び止め、警察に通報して電話で事情を説明してくれました。

 


別の方向へと探しに行った友人と落ち合う為に一度宿に戻り、10分後におばさんの元へと帰るともうパトカーが到着して、2人組の警察官がパトカーから降りているところでした。僕が警察官にポリスレポート「チリ警察発行の盗難・紛失届出証明謄本(Certificado de Copia de Constancia)」が欲しい旨を伝えると、警官は僕らをパトカーで警察署まで連れて行きました。(下記地図の青)

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警察署では書類製作のための事情聴取が行われました。やり取りはグーグル翻訳を利用したりするものの、基本的にはすべてスペイン語で行われました。しかし、事件の概要はおばさんが伝えてくれていたのでしょうか。込み入った質問はされずに、犯人や盗まれた鞄の特徴など簡単な質問が多かったです。

 


また、この時に盗難証明書(certificado de robo)も同時にもらっておいた方がいいと思います。これが無いと保険がおりないそうです。

 


ちなみに今回の場合では自分から言いださない限りは、特にカバンの内容物について訊ねられることはなく、パスポートと鞄自体の盗難証明書の発行だけで終わりそうだったので、その旨を伝えてパソコンについての盗難証明書を追加してもらいました。

 


1時間ほどでこの書類の作成が終わり、一応の処理は終了になります。僕の場合はA4用紙の二枚綴りでした。また、この段階で「盗難・紛失届出証明謄本(Certificado de Copia de Constancia)」は身分証の代わりの役割になります。つまり、飛行機やバスに乗る時、宿に泊まる時にはこの書類の提示が必要になるので常に携帯する必要があります。

 

 

 

「パスポートを再発行する」

翌日、僕は飛行機で首都のサンティアゴへと向かいました。パスポートの代わりに警察書類を見せると問題なく搭乗できました。宿も問題なくチェックインできました。

 


在チリ日本大使館のホームページでは、「旅券が紛失・盗難に遭った場合」の手続きについての記載があります。

 


一般に海外でパスポートを紛失した場合に取りうる措置は2つあります。一つ目は「パスポートの新規発給」、二つ目は「帰国のための渡航書の発給」です。

 


「パスポートの新規発給」とは文字通り、全く新しいパスポートを作り直すということで、「帰国のための渡航書の発給」は現地から日本への帰国についての一度きりの許可証の発行ということになります。

 


「帰国のための渡航書の発給」の方がより簡易的で迅速なので、すでに帰国の日程が決まっている方はこちらの方がいいと思います。

 

 

 

「パスポートの再発行に必要な書類」

在チリ日本大使館のホームページでは「パスポートの新規発給」に必要な書類が全部で6種類掲載されています。

 


①紛失一般旅券等届出書

これは大使館の窓口に置いてあり、その場で記入するので事前に準備する必要はありません。

 


②一般旅券発給申請書

これも①と同様です。準備する必要はありません。

 


③写真2枚

「提出の日前6ヶ月以内に撮影された、縦4.5cmX横3.5cm 頭上の余白4mm前後で頭頂から顎までが3.4cm前後、無帽、無背景のもの」が必要です。サンティアゴでは「Instanfot Ltda - Foto Visa y Foto Carnet en Santiago Centro(下記地図のピン)」で証明写真が撮れました。4枚で5000ペソでした。

 


f:id:ressoryan:20190329095157j:image「店名:Instanfot Ltda - Foto Visa y Foto Carnet en Santiago Centro(住所:Ahumada 131 Tercer, piso oficina 313, Santiago, Región Metropolitana)」

 


④戸籍謄本

ホームページ上では「発行後6ヶ月以内の原本」と記載されていますが、スキャンしたものをデータで提出の形で問題ないということでした。(帰国後に原本を国際郵便で送ることが必要です。)

 


⑤身元確認書類

ホームページ上では「日本の運転免許証等写真付きの公文書」と記載されていますが、僕の場合、免許証も学生書も盗まれていたので写真付きの公文書を持っていない状態でした。しかし、大使館の方に伺ったところクレジットカードでも良いということでした。

 


⑥チリ警察発行の盗難・紛失届出証明謄本(Certificado de Copia de Constancia)

先述した警察発行の書類です。

 

 

 

「大使館に行く」

日本から戸籍の写しがメールで送られてくるのを待って、僕は日本大使館に行きました。地下鉄1号線のLos Leonesが最寄駅です。(下記地図の赤いピン)f:id:ressoryan:20190329095511j:image

 


大使館に着くと正面に警備員がいる窓口があるので、パスポートを作りたい旨を伝えましょう。(日本語は通じないようです。)旨を伝えると、向かって右側の領事部へと通されます。領事部の方は日本語での対応となります。そこで必要書類に記入し、提出してください。その後、指定のメールアドレスに戸籍謄本の写しが提出されたことを確認して、パスポートの発行に移ります。

 

 

「パスポートを受け取る」

ホームページ上では再発行まで3~5日かかると記載されていますが、僕の場合は即日で、その日の午後にはメールにて連絡があり、パスポートが発行されました。新規発給の代金は現金で、64500ペソでした。お釣りが無いように丁度の代金を持っていきましょう。

 


日本大使館には迅速に対応していただき本当に助かりました。とても親身になっていただきました。身ぐるみ盗難にあったりして、書類等が用意できなくても、とりあえず日本大使館に連絡して指示を仰ぐのが良いと思います。

 

 

 

「まとめ」

・まずは警察に通報して、書類を発行してもらう。

・次に大使館に連絡して指示を仰ぐ。

・戸籍謄本を持っていない場合、日本から戸籍謄本の写しをデータで送ってもらう。

・そして、必要書類を用意して大使館に行く。

 


パスポートの再発行まではこの流れになります。盗難されてすぐはパニックになってしまいますが、盗られたものは仕方ないです。粛々と手続きを進めるだけなので冷静に落ち着いてやりましょう!少しでもお役に立てば幸いです!!

【チリ】パスポート盗まれました(事件の経緯編)

チリでサブバッグを盗まれました。現金やパソコン、パスポート等総額10万円超の被害総額です。

 


反省と注意喚起を込めて、ブログとして投稿します。

 


前編では事件の経緯を、後編では事件後の諸手続きについて紹介しようと思います。

 

 

 

「盗難事件の経緯」

僕は大学の友人と2人で南米を旅していました。その友人が新年度に向けて3月23日にチリのアントファガスタ州カラマから日本に帰国するということで、前日の22日に僕たちはボリビアのウユニからカラマへと移動しカラマで一泊しました。

 


そして翌日の23日。友人のフライトは夕方の6時ということで時間があったので、少しカラマの街を散策していました。街や市場をぶらついて、13時過ぎに中央市場近くの大衆食堂(下写真のcosinera DESSY)に入りました。(下記地図の黄色い星マークの場所です。)大衆食堂の店内は奥に細長く、テーブルは4人がけのものが3×10弱並んでいたように思います。つまり、縦に三列並んだテーブルの間を通路として利用している様子でした。

 

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僕らは縦の中央の列、入り口から数えて3つ目ぐらいの4人がけテーブルに座りました。友人が入り口側に座り、僕はその正面に向き合って座ります。そして僕は隣の席に持っていた斜め掛けのサブバッグを置きました。

 


一通りメニューを見て悩んだ後、店員が僕らのオーダーを取り終わる頃に入り口から中年の男女が僕たちのテーブルに近づいてきました。そうして僕らの座る椅子の反対側、つまり、サブバッグの置いてある側を通って、彼らは僕の背後を通過し僕らの座る方へと抜けていきました。ちょうどJの字を書くような感じです。

 


すると彼ら、僕らのテーブルの真横でモゴモゴモゴと何かを言ってふいに紙ナプキンを落とします。この時点で何か怪しいなどという違和感は特に無く、僕は拾ってほしいのだと解釈して、紙ナプキンを拾ったのですが、それを渡そうと顔を上げると彼らはもういなくなっていました。そしてここで違和感を抱き、自分の隣の席へ向き直すと、あろうことかあるはずのサブバッグが消えていました。

 


「やられた」

 

サブバッグが盗まれたことに気づいた僕は彼らの後を追ってすぐに店を飛び出しました。男の方が左へ歩いて行ったのが見えたので、男を追い、追いつきましたのです(下記地図赤矢印)。ただ、彼は僕のサブバッグを持っておらず、「俺の鞄はどこだ!」と訊ねると道の反対側を指さします。そこで、パニックで気が動転していた僕は男を解放し、道の反対側へと走り出してしまいました。おそらく女は店を出て右側へと逃げたはずです。(下記地図青矢印)そうするともう彼らは見つかるはずもなく、僕のサブバッグは完全に盗まれてしまいました。

 

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幸いスマホと全てのクレジットカードは無事だったのですが、米ドル(500ドル程度)、パソコン、パスポート、免許証、学生証、モバイルバッテリー等総額10万円を超える被害でした。

 


これが事件の顛末になります。人気の多い白昼の店内で自分は友達と二人でいる、しかも南米では比較的治安の良いチリということもあり油断していました。完全に油断していました。普段サブバッグをサラで置くようなことはしないだけに滅茶苦茶くやしいです。情けないです。ちなみに、首都のサンティアゴでこの話を欧米人のバックパッカーにしたところ「カラマは治安がいいのに。」と言われましたが、後日日本大使館の方に伺ったところ、チリでもスリやひったくり等の軽犯罪は多発しており、特に東洋人はお金を持っていると思われているため特に注意が必要なそうです。我々日本人は常に狙われていることを肝に命じた方が良さそうです。

 

 


後編では、事件後の警察への連絡やパスポートの再発行について書いていこうと思います。

 

類似の事件が起こらないことを願います。